小見川藩

小見川藩(おみがわはん)は、下総国 22に存在した。藩庁は香取郡小見川村(現在の千葉県香取市小見川)[1]の小見川陣屋。

徳川家康の関東入部後に松平家忠が入封。以後は短期間で藩主が交替し、1619年に一時廃藩となった。徳川家光の側近であった内田正信が1639年に領主となって以降、小見川は内田家(下野国鹿沼藩)の所領となった。1724年、内田家は藩庁を移転し、小見川藩が1万石で再立藩された。以後、内田氏が10代約150年続き、廃藩置県を迎えた[2]

藩史

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関連地図(香取市周辺)

家康の関東入部以後

深溝松平家の松平家忠は、天正18年(1590年)の家康の関東入部とともに武蔵国忍城に入ったが(忍藩)、文禄元年(1592年)2月19日に下総国香取郡上代(かじろ。桜井城とも。現在の旭市櫻井)に移った[3]。『家忠日記』には上代での動向が詳しく記されているが、居城の普請については言及がないため、仮の配置という見方がある[3]。家忠は文禄3年(1594年)に小見川城に移った[3]

家忠は鳥居元忠と共に慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで戦死した。家督は子の松平忠利が継ぎ、翌慶長6年(1601年)2月に三河国深溝藩に移封された。

慶長7年(1602年)12月28日、土井利勝が1万石で入ったが、慶長15年(1610年)2月に下総国佐倉藩3万2400石に加増移封された。慶長17年(1612年)、安藤重信が1万6000石で入部した。重信は元和元年(1615年)に2万石の加増を受け、元和5年(1619年)10月にもさらに2万石加増の上で上野国高崎藩に加増移封となった。

廃藩時期

安藤氏の転出により小見川藩は廃藩となり、その所領は土井利勝の佐倉藩領として組み込まれた。

寛永10年(1633年)4月に利勝が古河藩に移り、佐倉藩には石川忠総が入部するが、小見川は引き続き佐倉藩領であった。その後、三浦正次(下総矢作藩)の支配となる。

内田氏

内田正信と鹿沼藩

内田氏は、遠江国城飼郡内田荘に起源を持ち[4]、古くは今川氏、のちに徳川家康に仕えた家である[1]徳川家光に奥小姓として仕えていた内田正信[5]、寛永16年(1639年)に下総国・常陸国で[1]8200石の加増[5]を受け、1万石の大名になった[1][5]。ただし、正信は慶安2年(1649年)に下野国都賀郡・安蘇郡内で5000石の加増を受け[5]、下野国鹿沼に居所を移した(鹿沼藩[1][5]。なお、内田正信は慶安4年(1651年)の家光の病死に際して殉死した一人である[5]

鹿沼藩2代藩主内田正衆のもと、小見川では用水堰の整備などが行われた[5]。元禄元年(1688年)には小見川陣屋(小見川字館之内、現在の小見川中央小学校付近の敷地)が築かれている[1]

小見川藩の再立藩

享保9年(1724年)、正信の玄孫にあたる内田正親の時代に小見川に移った[1]。正親の父にあたる内田正偏が乱心により蟄居させられ、3000石減封(これにより内田家は1万石となった[注釈 1])の上で家督相続が許されたものであった[5][6][7]

幕府においては5代藩主内田正肥大番頭、8代藩主内田正徳が大番頭・軍艦奉行を務めた。一方、6代藩主内田正容は不行跡により隠居を迫られている[5]

幕末・戊辰戦争から廃藩置県まで

元治元年(1864年)、分家から養子として入り[5]家督を継いだ10代藩主(最後の藩主)内田正学のもとで幕末を迎える。

戊辰戦争では、房総も混乱に巻き込まれた[5]慶応4年(1868年)3月には、脱藩藩士による蜂起が起こるなどして藩内は混乱した。[要出典]

陸奥国白川郡の飛び地領は、白河小峰城をめぐる戦闘(白河口の戦い)や棚倉城落城の影響を受け、両軍からの人馬継立や食料等の要求、敗残兵の出没、避難民の通過などの混乱が生じた[8]

明治2年(1868年)の版籍奉還で内田正学は藩知事となる。明治4年(1871年)の廃藩置県で小見川藩は廃藩となる。その後、小見川県新治県を経て、千葉県に編入された。

歴代藩主

松平(深溝)家

1万石。譜代

  1. 松平家忠(いえただ)
  2. 松平忠利(ただとし)〈従五位下・主殿頭〉

土井家

1万石。譜代。

  1. 土井利勝(としかつ)〈従四位下・大炊頭・侍従〉

安藤家

1万6000石。譜代。

  1. 安藤重信(しげのぶ)〈従五位下・対馬守〉

内田家

譜代。1万石。

  1. 内田正親(まさちか)〈従五位下・出羽守〉
  2. 内田正美(まさよし)〈従五位下・出羽守〉
  3. 内田正良(まさよし)〈従五位下・近江守〉
  4. 内田正純(まさずみ)〈従五位下・伊勢守〉
  5. 内田正肥(まさもと)〈従五位下・近江守〉
  6. 内田正容(まさかた)〈従五位下・伊勢守〉
  7. 内田正道(まさみち)〈従五位下・豊後守〉
  8. 内田正徳(まさのり)〈従五位下・主殿頭〉
  9. 内田正縄(まさつな)〈従五位下・主殿頭〉
  10. 内田正学(まさあきら)〈従五位下・主殿頭〉

幕末の領地

天保9年(1838年)以来、陸奥国白川郡に飛び地領を有し、仙石村(現在の福島県石川郡古殿町仙石)に陣屋を置いた。陣屋日誌などの資料(小見川陣屋文書、仙石陣屋文書などとも呼ばれる)は古殿町の重要有形文化財・考古資料に指定されており、福島県歴史資料館に「有賀真雄家文書」として収蔵されている[9][10][8]

備考

  • 内田家の菩提所は小見川仲町の本願寺(浄土宗)[1][11]。内田氏歴代の位牌があり、香取市の指定文化財(「小見川藩主内田氏関連位牌」一式54点)になっている[5][12]
  • 内田氏の重臣であった脇家につたわっていた古文書10点が「脇家古文書」として香取市の指定文化財になっている[12]。この中には、小見川陣屋の図面「小見川御陣中図面」がある[5]
  • 利根川支流の黒部川に設けられた小見川河岸は利根川舟運の要地であり、津出場(年貢米の集積・積み出し地)であった[1]

脚注

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注釈

  1. ^ 正信の代には1万5000石であったが、その後2000石を分知したために、減封前は1万3000石であった。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i 『房総における近世陣屋』, p. 15, PDF版 33/313.
  2. ^ 大谷貞夫. “小見川藩”. 日本大百科全書(ニッポニカ). 2020年11月8日閲覧。
  3. ^ a b c 『房総における近世陣屋』, p. 14, PDF版 32/313.
  4. ^ 大森映子. “内田氏”. 世界大百科事典 第2版. 2020年11月8日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m “Vol-016 藩主もいろいろ 小見川藩 内田氏”. アーカイブ香取遺産 Vol.011~020. 香取市. 2020年11月8日閲覧。
  6. ^ “内田正偏”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2020年11月8日閲覧。
  7. ^ “内田正親”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2020年11月8日閲覧。
  8. ^ a b “近世の古殿(戊辰戦争)”. 古殿町. 2020年11月8日閲覧。
  9. ^ “有賀真雄家文書(石川郡古殿町)”. 収蔵資料の一覧. 福島県歴史資料館. 2020年11月8日閲覧。
  10. ^ “小見川藩陣屋文書”. 古殿町. 2020年11月8日閲覧。
  11. ^ “正堯山本願寺(往生院)”. 千葉県内の浄土宗寺院紹介. 浄土宗千葉教区. 2020年11月8日閲覧。
  12. ^ a b “文化財一覧”. 香取市. 2020年11月8日閲覧。

参考文献

  • 『千葉県教育振興財団研究紀要 第28号 房総における近世陣屋』千葉県教育振興財団、2013年。http://www.echiba.org/pdf/kiyo/kiyo_028.pdf 
先代
下総国
行政区の変遷
1639年 - 1871年 (小見川藩→小見川県)
次代
新治県
大政奉還から廃藩置県までの間に存在した
慶応3年(1867年)旧暦10月 - 明治4年(1871年)旧暦7月
北海道地方
日本地図
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四国地方
九州地方
関連項目
藩庁の置かれた地域を基準に分類しているが、他の地方に移転している藩もある。順番は『三百藩戊辰戦争事典』による。
明治期の変更: ★=新設、●=廃止、○=移転・改称、▲=任知藩事前に本藩に併合。()内は移転・改称・併合後の藩名。()のないものは県に編入。