ケニア

ケニア共和国
Jamhuri ya Kenya(スワヒリ語)
Republic of Kenya(英語)
ケニアの国旗 ケニアの国章
国旗 国章
国の標語:Harambee(スワヒリ語)
共に働こう
国歌Ee Mungu Nguvu Yetu(スワヒリ語)
Oh God of All Creation(英語)
おお、万物の神よ
ケニアの位置
公用語 スワヒリ語英語
首都 ナイロビ
最大の都市 ナイロビ
政府
大統領 ウィリアム・ルト
副大統領 リガティ・ガチャグア(英語版)
面積
総計 580,367km249位
水面積率 1.9%
人口
総計(2020年 53,771,000[1]人(27位
人口密度 94.5[1]人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2019年 10兆2556億5400万[2]ケニア・シリング
GDP(MER
合計(2019年1004億5800万[2]ドル(61位
1人あたり 2110.46[2]ドル
GDP(PPP
合計(2019年2439億8000万[2]ドル(73位
1人あたり 5125.633[2]ドル
独立
 - 日付
イギリスから
1963年12月12日
通貨 ケニア・シリングKES
時間帯 UTC(+3) (DST:なし)
ISO 3166-1 KE / KEN
ccTLD .ke
国際電話番号 254

(ケニアきょうわこく)、通称ケニアは、東アフリカに位置する共和制国家で、イギリス連邦加盟国である。北にエチオピア、北西に南スーダン、西にウガンダ、南にタンザニア、東にソマリア国境を接し、南東はインド洋に面する。

首都のナイロビアフリカ大陸有数の世界都市で、国際連合環境計画国際連合人間居住計画の本部が置かれている。

国名

正式名称はスワヒリ語で「Jamhuri ya Kenya[3]、英語では「Republic of Kenya[4]日本語での表記はケニア共和国。通称「ケニア」。「ケニヤ」とも表記する。国名はケニア山に由来する。

歴史

詳細は「ケニアの歴史(英語版)」を参照

クシ語系の民族移動

紀元前2000年頃に北アフリカからケニア地域へクシ語系の民族移動が行われた。

バンツー系の民族移動

紀元前1000年までに、バンツー語系ナイル語系の民族がケニアの地域に移動し、今日のケニア国民を形成する民族として定住した(en:Bantu expansion)。

アラブの進出とスワヒリ文明の勃興

7、8世紀頃にはアラブ人が海岸地域に定住しており、モンバサマリンディなど交易の拠点を建設した。10世紀までに、ケニア沿岸部にはバンツーとアラブの言語が混ざったスワヒリ語のスワヒリ文明が栄え始めた。1418年頃に鄭和の艦隊の一部がマリンディにまで到達した記録が残っている。15世紀末、ヴァスコ・ダ・ガマの来訪をきっかけにポルトガル人が進出するも、やがて撤退しアラブ人が再進出。18世紀にはアラブ人の影響力が内陸部にまで及び、奴隷貿易象牙貿易などが活発になる。

オマーン帝国

1828年にはオマーン帝国スルタンであるサイイド・サイードがモンバサを攻略した。

イギリスの進出

19世紀にアフリカの植民地化が進むと、ケニア沿岸にはイギリスドイツ帝国が進出。権力争いの末にイギリス勢が優勢となり、1888年には沿岸部が帝国イギリス東アフリカ会社(英語版)(IBEA)により統治されるようになった。1895年にイギリス領東アフリカが成立。1895年から1901年の間に、モンバサからキスムまでの鉄道が英国によって完成した。1896年アングロ=ザンジバル戦争で敗れたスルタ ンがザンジバル・スルタン国(1856年 - 1964年)に根拠地を移した。1902年ウガンダもイギリスの保護領となり、イギリスの影響が及ぶ地域が内陸部に広がった。1903年に鉄道はウガンダまで延びた。1920年には直轄のケニア植民地(英語版)となる。

政治運動の始まり

「en:History of the Kenya African National Union」も参照

1921年6月10日ハリー・トゥクー(英語版)によってキクユ青年協会(YKA)が設立され、政治運動が始まった。1924年にYKAの政治活動が禁止されると、en:James Beauttahらによってキクユ中央協会(英語版)(KCA)が結成された。

1940年第二次世界大戦イタリア領東アフリカとの戦場になると、KCAも政治活動が禁止された。のちにマウマウ団の乱の際、一部の活動家が組織をKCAと自称していたのはキクユ中央協会の活動を継承していたためである。1942年にケニア・アフリカ学生同盟(Kenya African Study Union、KASU)が設立され、1947年にジョモ・ケニヤッタが加わりケニア・アフリカ同盟(英語版)(KAU)に改組された。

マウマウ団の乱

1952年 - 1956年ケニア土地自由軍(KLFA)が植民地政府に対してマウマウ団の乱を起こし、イギリスへの抵抗運動が始まった。マウマウ団の乱は敗北した。このとき、KAUのメンバーであったジョモ・ケニヤッタが投獄されている。当時、グレンデールのホウィック男爵の草分けであるイヴリン・ベアリングがケニア総督(在任1952年 - 1959年)であった。

独立とケニヤッタ政権

反乱を契機に独立の機運が高まった。1960年には、KAUの中心メンバーによって、ケニア・アフリカ民族同盟(KANU)が結成され、同時期にKADUが結成された。一国体制と連邦体制と両方の意見を持つ2つの政党、KANUとKADUの間で意見の対立があったが、James Gichuru、ジャラモギ・オギンガ・オディンガトム・ムボヤ(英語版)が率いるKANUが主導となる。

1963年英連邦王国として独立。翌1964年に共和制へ移行し、ケニア共和国が成立した。初代大統領に就任したジョモ・ケニヤッタやダニエル・アラップ・モイは、冷戦中の当時「アフリカ社会主義」を掲げて親ソビエト連邦の姿勢を示した。国内的にはケニア・アフリカ民族同盟(KANU)の一党制が敷かれ、その後は一貫して西側寄りの政策を採った。のちにKANUを飛び出したオギンガ・オディンガがKPUを設立した(1969年に活動禁止となる)。ケニヤッタ政権下でケニアは経済成長を遂げた。

モイ政権

1978年のケニヤッタ死去後、ダニエル・アラップ・モイが第2代大統領に就任した。1982年8月、空軍クーデター未遂事件(英語版)が起きた。

1991年に複数政党制を導入。ムワイ・キバキはKANUを飛び出して民主党(DP)を結成。2000年、モイがケニヤッタの息子、ウフル・ケニヤッタをKANUの後継者とし、en:The National Allianceと改組された。

1998年8月7日には、首都ナイロビの在ケニアアメリカ合衆国大使館がアルカーイダによって攻撃されるアメリカ大使館爆破事件が発生し、数千名の死傷者を出した。

キバキ政権

2002年の総選挙の結果、旧KANU政権の継続を阻止しようとしたムワイ・キバキを代表とする大小多数の政党による連合組織「国民虹の連合(英語版)(NARC)」が選挙に勝利し、初めての政権交代が実現した。しかしキバキは、公約である憲法見直しへの着手を実施せず、またキバキの出身部族であるキクユ人優遇策をとり、また連合組織内の党派同士の約束を破って連合を分裂させるなど、新たな政権の樹立を期待した選挙民を裏切った。政権は保守色のある抵抗勢力と呼ばれるキバキ派と改革派の政党LDP(のちにODMに発展)に分裂する。改革派の中心はライラ・オディンガであった。2002年以来審議された憲法改正は、2005年7月にケニア議会で改正案が承認されたが、大統領権限の強い性格のものであり改革派は改正案に反対であった。11月に国民投票を行ったが、改正案は国民投票により否決され、ムワイ・キバキ大統領は閣僚の交代を余儀なくされた。

ケニア危機

オレンジ民主運動の支持者たち

そして、2007年12月の大統領選挙は、キバキ派(国家統一党;PNU)とライラ・オディンガを中心とした改革派(ODM:オレンジ民主運動)との一騎討ちとなった。当初オディンガ優勢とされたにもかかわらず、同年12月30日、選挙管理委員会がキバキ大統領の再選を発表した。しかし、意外な結果となったことを不服とした野党勢力が行った抗議行動は、警官による鎮圧も含め、両派衝突による暴動へと変容した。暴動は、ナイロビのスラムリフト・バレー州において住民同士の暴力や警官による鎮圧が発生し、1,000名を越える死者(リフトバレー州での教会に逃げた避難民焼き討ちによる大量焼死事件や相次ぐODM議員の暗殺事件も含む)と非常に多くの国内避難民を生み出した。

国際連合事務総長コフィー・アナンにより翌年1月に行われた調停の結果、和解の合意がなされ、キバキとオディンガが、大統領と首相を分け合う連立政権が成立することで、2月末に政治的混乱は一応収拾された。連立政権とともに国民の対話と和解の法と暫定憲法が成立する(2007年-2008年のケニア危機)。 

連合政権はその後、本格的に憲法改正作業に着手する。2010年8月4日、国民投票によって新憲法の成立が決まった。新憲法は、1963年にイギリスの植民地支配から独立した際に制定された憲法に代わり、大統領権限の縮小による三権分立の強化など、より制度的な民主化を促進するとみられる(ケニア共和国憲法 (2010年)、en:Constitution of Kenya、en:Kenyan constitutional referendum, 2010)。

東アフリカ大旱魃

詳細は「東アフリカ大旱魃 (2011年)」を参照

ウフル・ケニヤッタ政権

2013年3月の大統領選挙(英語版)ウフル・ケニヤッタが当選、4月に就任。2013年9月21日ケニアショッピングモール襲撃事件が発生し、ソマリアで活動していたアル・シャバブが犯行声明を出した。

2017年8月の大統領選挙でケニヤッタが再選されたが、最高裁はこれを無効とした。これはアフリカで選挙結果が法的に無効にされた初めてのケースである[5]。同年10月にやり直しの大統領選挙(英語版)が執行されたが、野党候補のライラ・オディンガがボイコットしたためケニヤッタが圧倒的多数で再選された。

2022年大統領選挙

2022年8月9日に実施された大統領選挙について、選挙管理委員長は同月15日、副大統領のウィリアム・ルトが50.49%の得票で勝利したと発表した(オディンガの得票率は48.85%)[6]。オディンガは翌16日、選管委員の半数が疑義を呈しているなどとして、委員長が発表した選挙結果の受け入れを拒否と法的対抗手段をとることを表明した[7]

政治

ケニア国民議会議事堂
詳細は「ケニアの政治(英語版)」を参照

大統領制をとる。ケニア議会は224議席、任期5年、一院制国民議会(英語版)からなっていたが、2013年より二院制(Countyの代表である上院と選挙区議会の下院)に移行した。

初代大統領ジョモ・ケニヤッタ、二代目ダニエル・アラップ・モイと建国以来ケニア・アフリカ民族同盟(KANU)が長く政権の座にあり一時期に一党制であったが、1991年より複数政党制が導入された。

国際関係

詳細は「ケニアの国際関係(英語版)」を参照

日本との関係

詳細は「日本とケニアの関係」を参照
  • 在日ケニア大使館汚職事件 - 2009年大使館用地購入を巡る汚職疑惑事件が起こり、翌年、Moses Wetangula外務大臣が辞任した(のちに復職)。日本政府から好立地で無料の大使館用地の提示があったにもかかわらず、東京都目黒区の敷地を大使館用地として市井価格より高い金額で現金購入したことが問題となった[8][9]
  • 在留日本人数 - 674人(2021年10月時点)[10]
  • 在日ケニア人数 - 863人(2020年12月時点)[10]

地理

ケニアの地図。ルドルフ湖は現在トゥルカナ湖と呼ばれる。北西部に、ケニアと南スーダンとエチオピアとの係争地で、ケニアが実効支配するイレミ・トライアングルがある。
地形図
詳細は「ケニアの地理(英語版)」を参照

ケニアの首都ナイロビはマサイ族の言葉で「冷たい水」を意味する。ナイロビはカヤツリグサが茂る沼地に位置する。ケニアは赤道直下に位置しており、インド洋ヴィクトリア湖沿岸は年間平均気温が26熱帯性気候である。しかし、国土の大部分は標高1,100 - 1,800メートルの高原となっているため、年間平均気温が19℃の乾燥した高原サバンナ地帯となっている。11月から3月にかけては北東モンスーン、5月から9月には南東モンスーンと呼ばれる季節風が吹く。最高地点は赤道が通るケニア山(標高5,199メートル)。エチオピアからタンザニアにかけて西部を走る大地溝帯は大地を切り裂いた壮大な地質形態で、「リフト・バレー」と呼ばれる。北からトゥルカナ湖ナクル湖ナイバシャ湖マガディ湖などが並ぶ。

国立公園・国立保護区

地方行政区分

詳細は「ケニアの地方行政区画」および「ケニアのカウンティ」を参照

2010年の国民投票により新憲法が制定され、独立以来続いてきた州を基本とする中央政府主導の国家体制から47のカウンティ(County:日本のイメージで「県」)を地方行政の単位とすることが決定された(地方分権化)。2013年3月に行われた総選挙[注釈 1]後にカウンティ政府が設立された。カウンティ政府には中央から多くの権限が委譲され、必要な予算・職員も従来の地方行政区や中央から配置・配転された[11]。カウンティ政府法[注釈 2]によって各カウンティの下にはサブ・カウンティ(sub-county)、区(ward)、村(village)などの下位行政区分が設置されている。サブ・カウンティは国会議員(290名)を選出するための選挙区(constituency)に対応している。

2013年以前の行政区分

新憲法施行以前の行政区分は州(Mikoa, Province)が設置されていた。

詳細は「ケニアの州」を参照

主要都市

詳細は「ケニアの都市の一覧」を参照

主要な都市はナイロビ(首都)、モンバサキスムがある。

経済

首都ナイロビの景観
詳細は「ケニアの経済(英語版)」を参照

ケニアは東アフリカ地域経済の中心として発展し、サファリパークやビーチ・リゾートなどの観光資源に多くの観光客を集めている。

同国の主要産業は農業であり、国内総生産(GDP)の約30%を占めている[12]。また、農業部門はケニアの輸出総額の65%を占めている[13]。農業部門は雇用面でもケニア経済において重要な役割を果たしており、正規雇用に占める割合は約18%(2005年)ほどであるが[13]、労働力人口全体(1,891万人)で見ると70.6%(1,335万人)が農業に従事している(2010年)[14]。さらにケニアの人口の約8割の人々が農業によって生計を立てている。

2010年代には欧州向けの紅茶、花卉の輸出が増加した。自然条件(起伏に富んだ国土、温暖な平野部と冷涼な高地が混在)とケニア政府による園芸産業育成により欧州連合(EU)向け花卉の最大の供給源である[15]。さらに2020年代にはアボカドの輸出も好調さを見せている[16]

工業化は他のアフリカ諸国と比べると進んでいる方で、特に製造業の発展が著しい。

独立以来、資本主義体制を堅持し、東アフリカでは最も経済の発達した国となった。しかし、政情不安や政治の腐敗・非能率、貧富の差の増大という問題を抱える。2007年の経済成長率は約7%、2008年は国内混乱の影響で成長率は低迷したが、2009 - 2010年は4 -5%の成長に戻った。

ナイロビは東アフリカの通信・金融・交通の中心都市であり、モンバサは東アフリカ最大の港湾都市であり内陸部への重要な入り口である。1999年にタンザニアやウガンダとともに地域経済の発展のため、関税、人の移動、インフラの向上を目指した東アフリカ共同体(EAC)を形成した(のちにルワンダ、ブルンジが参加)。2004年には関税同盟を確立し、2010年にはEACの共同市場化が発足し、2012年までの自由化と共通通貨の達成を目標としていた。

LAPSSETはインド洋のラム港と、エチオピアや南スーダンを結び、ケニア北部の開発を目的とするインフラ計画である。

鉱業

ケニアの鉱物資源は種類、産出量とも少なく、さらに第二次世界大戦から20世紀末にかけて規模を縮小してきた。主な鉱物資源はソーダ灰、塩、マグネシウム鉱物、蛍石石灰岩である。日本の経済産業調査会の『鉱業便覧』によると、1986年にはマグネシウム鉱30万トンを産出し、これは世界シェアの1.7%に達した。塩9.2万トン、金16キログラム、蛍石10万トン、採掘後に工場で加工されたソーダ灰24万トンも記録されている。2004年時点では塩が1.9万トンに減少、その他の鉱物は記録されていない。唯一、金の産出量が1.6トンに拡大している。主な金鉱山は南西部のグリーンストーン帯(英語版)に分布する。金の採掘は機械化されておらず、手工業の段階に留まっている。現在石油は100%輸入に頼っているが、近年探査が進み発見されており、その生産開発が検討されている。また、大地溝帯が南北に貫くナイロビ西方では地下の地熱を開発中で日本企業も参加している。

貿易

2012年のケニアの貿易額は、輸出額が51億6,900万ドル、輸入額が120億9,300万ドルである(69億2,400万ドルの貿易赤字)[17]

日本との貿易

対日輸出額は4,600万ドル、対日輸入額は9億1,100万ドルである[17]

格差

ケニアの経済は、極端に富が一部に集中している。5300万人の人口の0.1%以下が、その他の99.9%よりも多くの富を所有している[18]

交通

詳細は「ケニアの交通(英語版)」を参照

国民

伝統衣装をまとったマサイ族
モンバサのカトリック大聖堂
詳細は「ケニアの人口統計(英語版)」を参照

人口

2009年の国勢調査によると、ケニアの総人口は3,861万0,097人(男性:1,919万2,458人,女性:1,941万7,639人)である[19]。また、CIAワールドファクトブックによる推計では2014年7月時点の総人口は4,501万0,056人である[20]

民族

ケニアの主要な民族の人口は、以下の表の通りである。

ケニアの主要民族[19]
民族 人口 人口比(%)
1 キクユ 6,622,576 17.2
2 ルヒヤ(英語版) 5,338,666 13.8
3 カレンジン(英語版) 4,967,328 12.9
4 ルオ 4,044,440 10.5
5 カンバ 3,893,157 10.1
6 ソマリ 2,385,572 6.2
7 キシイ 2,205,669 5.7
8 ミジケンダ 1,960,574 5.1
9 メルー 1,658,108 4.3
10 トゥルカナ(英語版) 988,592 2.6

ケニアには全部で42の民族が存在していると言われるが、上表の通り上位5位までの民族でケニアの総人口の約3分の2を、上位10位まででその約9割を占めている。また、その他にアジア系ヨーロッパ人アラブ人などが少数存在する。ただしこれらの民族/部族区分はイギリスが植民地支配のために造り出したものであり、民族間の境界は存在しなかった[21]。人口比では少数派だが、イギリス系などの大土地所有者や、鉄道建設時に労働力を補いのちに商人としてやってきた「インド系(印僑)」も、政治経済に大きな影響力を保っている。

南部からタンザニア北部にかけて、遊牧民であるマサイ族も存在する。

言語

詳細は「ケニアの言語」を参照

公用語・国語

2010年に制定された憲法では、ケニアの国語(National Language)はスワヒリ語公用語(Official Language)はスワヒリ語および英語と定められている。司法機関はスワヒリ語よりも英語を重視しており、国民感情にも同様の傾向がある[22]

民族語

ケニアには英語やスワヒリ語の他に60以上の言語が存在しており[23]、大きく分けてニジェール・コンゴ語族バンツー諸語ナイル・サハラ語族ナイル諸語アフロ・アジア語族クシ諸語がある。

シェン

シェン(Sheng)とは、1970年代以降に生まれたスワヒリ語や英語、いくつかの民族語の混合言語スラングであり、主に首都ナイロビで若者を中心として話されている。

婚姻

結婚時に改姓すること(夫婦同姓)もしないこと(夫婦別姓)も可能[24]

宗教

詳細は「ケニアの宗教(英語版)」を参照

宗教は、キリスト教プロテスタントが47.7%、カトリック教徒が23.5%、その他のキリスト教徒が11.9%、ムスリムが11.2%、伝統宗教の信徒が1.7%、ヒンドゥー教徒が0.1%、その他が1.5%、無宗教が2.4%となっている[19]

教育

詳細は「ケニアの教育(英語版)」を参照

2010年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は87.4%(男性:90.6%、女性:84.2%)である[20]

ケニアの教育関連指標(2009年)[25]
純就学率(%) 教師一人当たりの生徒数 生徒一人当たり教育支出(%)[注釈 5]
男子 女子 合計
初等教育 82.3 83.2 82.8 46.8 22.3
中等教育 51.6 48.4 50.0 29.7 21.1
高等教育 4.7 3.3 4.0 - 273.6

主な高等教育機関としてナイロビ大学(1956、1970)の名が挙げられる。

保健

詳細は「ケニアの保健(英語版)」を参照

医療

詳細は「ケニアの医療(英語版)」を参照

治安

詳細は「ケニアにおける犯罪(英語版)」を参照

ケニアの治安は現在、安定しているとは言えない状況にある。発展が著しい反面、国内での貧富の格差拡大による都市部スラムへの人口流入、異なる部族間の土地や資源を巡る対立、不安定な近隣諸国からの難民を含む人口の流入や違法武器・物資の流入などを背景に、各地で様々な凶悪犯罪暴力事件、日常的な窃盗置き引きが発生している。

ナイロビ郡においては「シティ・センター」と呼ばれるナイロビ中心街やウエストランド地区で、白昼堂々と武装集団による強盗および禁止薬物売買等の犯罪が起きており、モンバサ郡では現地ツアー・ガイドを装った犯行グループが、モンバサ島のオールドタウンへのツアーと称して外国人観光客を誘導し、銃器を使用して金品を強奪する事案が発生していて、北部や北東部及び北西部地域では部族間で土地、家畜、水を巡る抗争が頻繁に繰り広げられている。さらに沿岸部のリゾート地では、外国人を狙った窃盗、路上強盗及び押し売り等が発生している。

傍らで日本人の被害事案も多発しており、一部には殺人事件も含まれているとの報告がされている[26]

人権

詳細は「ケニアにおける人権(英語版)」を参照

マスコミ

詳細は「ケニアのメディア(英語版)」を参照

文化

詳細は「ケニアの文化(英語版、フランス語版)」を参照
ケニア出身の文学者『グギ・ワ・ジオンゴ』は、植民地時代以来の公用語の英語ではなく、民族語であるキクユ語のみで創作することを宣言している。
ケニア最高峰の『ケニア山』は1997年世界遺産に登録された。

食文化

詳細は「ケニア料理(フランス語版)」を参照

文学

詳細は「ケニア文学(英語版)」を参照

小説においては英語で書いた『夜が明けるまで(英語版)』(1964)でケニア独立戦争を描いたあと、キクユ語のみで創作することを新たに宣言したグギ・ワ・ジオンゴ、『猟犬のための死体』(1974年)のメジャ・ムアンギ、『スラム』(1981年)のトマス・アカレケニア土地自由軍の指導者を描いた『デダン・キマジ』(1990年)で知られるサムエル・カヒガなどが著名な作家の名として挙げられる。

アフリカ文学」も参照

音楽

詳細は「ケニアの音楽(英語版)」を参照

映画

詳細は「ケニアの映画(英語版)」を参照

世界遺産

詳細は「ケニアの世界遺産」を参照

ケニア国内には、ユネスコ世界遺産リストに登録された文化遺産が4件、自然遺産が3件存在する。

祝祭日

詳細は「ケニアの祝日(英語版)」を参照
祝祭日
日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月1日 元日 New Year's Day
3月or4月 聖金曜日 Good Friday 移動祝日
3月or4月 イースター・マンデー Easter Monday 移動祝日
5月1日 メーデー Labour Day
6月1日 マダラカデー Madaraka Day 独立前の自治獲得記念(1963年)
10月10日 フドゥマデー Huduma Day 2019年まで Moi Day
10月20日 マシュジャアデー Mashujaa Day 旧称のケニヤッタ・デーから2010年に独立の英雄を祝う日へと名称・趣旨を変更
12月12日 独立記念日 Jamuhuri Day 1963年12月12日
12月25日 クリスマス Christmas Day
12月26日 ボクシング・デー Boxing Day

スポーツ

詳細は「ケニアのスポーツ」を参照

ケニア国内では、陸上競技サッカーが最も人気のスポーツとなっている。とりわけ陸上競技の長距離走の人気は高く、隣国エチオピアと並んで世界屈指の強豪国として知られている。2008年北京五輪・男子マラソンの金メダリストサムエル・ワンジルをはじめ、オリンピック世界陸上などでは優勝者を輩出している。

サッカー

詳細は「ケニアのサッカー(英語版)」を参照

ケニアではサッカーも盛んであり、1963年にプロサッカーリーグのケニア・プレミアリーグ(英語版)が創設された。ケニアサッカー連盟(FKF)によって構成されるサッカーケニア代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場となっている。アフリカネイションズカップには6度出場しているものの、いずれの大会もグループリーグで敗退している。

ケニア人の著名なサッカー選手として、マイケル・オルンガが特にアジア諸国においては知られており、2020年Jリーグ得点王および最優秀選手賞(MVP)を受賞し、翌年にアル・ドゥハイルSCに移籍したのち、AFCチャンピオンズリーグ2021では得点王に輝いている。さらに2021-22シーズンのカタール・スターズリーグにおいても、25ゴールを挙げ得点王となった。またオルンガの他にも、マクドナルド・マリガイタリアのセリエAで活躍し、さらにマリガの弟であるビクター・ワニアマは、イングランドプレミアリーグでプレーした。

著名な出身者

詳細は「ケニア人の一覧(英語版)」を参照

バラク・オバマ

詳細は「バラク・オバマ」および「アメリカ合衆国大統領」を参照

ケニア人のバラク・オバマ・シニアアン・ダナムの間に生まれたバラク・オバマが、アメリカ合衆国初の黒人大統領に就任した。オバマは同国では育てられていないが、過去にケニアを数回訪問している。両親は既に故人であるが、生存している祖母サラ・オバマの元には大統領就任の際、国外を含む10以上のメディアが押し寄せたと伝えられている。

ムワイ・キバキ大統領(当時)は、ジョン・マケイン候補が敗北を認めた直後に、「オバマ氏の勝利はケニアにとっての勝利でもある」と歓迎する声明を発表。更に祝意を表するため、11月6日を国民の祝日にすると宣言した[27]。オバマという姓はルオ族の姓であり、ヨーロッパ系の姓のみであった歴代アメリカ大統領の中に初のアフリカ独自の姓が現れたのである。またオバマの父はイギリス植民地時代に生まれ、オバマの母はイギリス人の血を引くためにオバマは大英帝国に関わりが深いアメリカ人でもある。

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 大統領、上院議員(Senator)、カウンティの知事、国会議員などを選出。
  2. ^ County Governments Act No.17 of 2012
  3. ^ ルイヤ語はさらに14の言語に分類することができ、主なものとしてブクス語(約140万人)、ロゴーリ語(英語版)(約62万人)、イダホ=イスハ=ティリキ語(英語版)などがある。
  4. ^ カレンジン語は幾つかの言語をまとめた方言群であり、キプシギス語(英語版)(約190万人)、ナンディ語(約95万人)などを含む。
  5. ^ 一人当たりGDPに対する生徒一人当たり公共教育支出額の割合。初等・中等教育は2006年、高等教育は2004年の数値。

出典

  1. ^ a b “UNdata”. 国連. 2021年10月10日閲覧。
  2. ^ a b c d e [1](2021年10月17日閲覧)
  3. ^ 発音 [ʄɑmˈhuˑrijaˈkɛɲɑ]、ジャムリ・ヤ・ニャ
  4. ^ 発音: [rɪˈpʌb·lɪk əv ˈken.jə]、リブリック・オヴ・ンニャ
  5. ^ “ケニア選挙やり直しの英断、司法独立への期待に火 アフリカ初の無効判決、一躍国民のヒーローになった最高裁判事” (2017年9月7日). 2017年9月18日閲覧。
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参考文献

  • 砂野幸稔 著「アフリカ文化のダイナミズム」、岡倉登志 編 『ハンドブック現代アフリカ』明石書店東京、2002年12月。 
  • 宮本正興 著「アフリカの言語――その生態と機能」、岡倉登志 編 『ハンドブック現代アフリカ』明石書店、東京、2002年12月。 

関連項目

外部リンク

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